歴史・インタビュー

HISTORY

1971年 創業

喫茶サンシャインの
創業から現在まで

異色の転身、創業店主の「豆腐屋」から
「喫茶店」になったワケ

創業店主「橋崎 光男(はしざきみつお)」は、昭和18年石川県生まれ。高校卒業後、現在の妻となる「渓子(けいこ)」の姉夫婦が大阪で豆腐屋の経営をしていたことから見習いとして大阪へ。
今では跡形もなくなくなってしまいましたが喫茶学校という今で言いう喫茶店の職業訓練校へ通いました。

その後、見習いを終え自らも豆腐屋の経営に乗り出す。

当時は、どんな商売でも「懸命に働けば成果が出る時代」。
「新日鉄 堺工場」がお店の近くにあったことからお弁当の注文が入った時には1800~2000を一気に頂きました。その頃は睡眠時間もなく懸命に働きました。

商売としては繁盛していた豆腐店でしたが、豆腐屋は朝が早く手伝ってくれている妻も子育てと両立しながらでは大変だということで家族の日常も守りながら「長く続けられる商売」はないか検討の結果、当時の喫茶ブームもあり「喫茶サンシャイン」を創業しました。

家族、妻への愛情が
「喫茶サンシャイン」を誕生させた

今では当たり前になりつつある自家焙煎を取り入れたことは、当時は珍しかったと思います。
また、創業当時の梅田のこの近辺は金融街としてたくさんのビジネスマンが行き来する最先端の大阪の産業地域でした。
創業当時懇意にしてくれていた日興証券の社員さんたちが休憩がてらコーヒーを飲みに来てくれたり、会議があるということでジュースを80杯配達するなんてこともありました。

当時は、今のようにキッチリしていませんでしたから職場から抜け出してお茶を飲んで休憩なんて使い方も多かったのだと思います。
そういえば、日興証券の社員専用の散髪屋がありました。仕事を抜け出して散髪に行く。
忙しい時代でしたが社会全体がおおらかでした。

商業地梅田に長く続く秘訣は
地域との密接な関係

商売のきっかけであった豆腐店では「新日鉄 堺工場」があり、喫茶サンシャインでは「日興証券」があり、「働く」ことと「食事・休憩」が地域で密接に繋がっていたような店主 橋崎 光男は、今でも「誠意を持って地道に繋げる商いこそ長く評価されるもの」と今でもその想いは変わらない。

身近に働く人の姿や変化を見る中で奇をてらわず今でも日本社会に長く続く会社の一端を知る店主は創業50年を迎えても何も変えずに「誠心誠意、地道に商売を」を次の世代へ受け継ぐ。